昭和47年12月27日  朝の御理解 ●② 大坪かよこ

御理解第61節
 神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道ふんでいくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神なるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。




 ここんところで一番大切なところは、どこだろうかと思いますがね。
私はここんところが一番大切じゃなかろうかと思うんです。
神心となりて、人に丁寧に話をしていくのが、真の道をふんでいくのぞ、というところ、ね。また、真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ、と。
神心となりて、人に丁寧に話をしていくということ。
信心を頂いておるけれど、はたしてどれだけ、神心となりて人に丁寧に伝えておるだろうか。ね、お道の信心は、ね、人間から神様へ向かって進んでいく、いうなら進化していくとでも申しましょうか。進む、化する、ですね。
または神格化していく、人格から、神格に変わっていく。それがお道の信心であり、それが神様の願いなんです。
ですから、この方のことを、みな神、神というけれども、みんなもそのようなおかげが受けられると教祖は仰っておられる。
ね、神、神とはここに神が生まれるという、生神とはここに神が生まれるということであってと、自分の心の中に、たとえば、ここで、神心となりて、人に丁寧に話をしていくというときになると、ところは、ね、もう神になる稽古である。同時にここにはっきり仰ってあることは、これが神になるのぞと、こう仰ってある。
ね、自分がそういう信心を頂いて、自分の心が、ね、段々、神様へ向かって進んでいく。そういうことの有り難いということを、また、人に伝えていく、しかも丁寧に伝えていく。そしてそういう真の信心をさせるというか、してもらうというか、ね、そのことが神様への御礼である。
ね、そのことが、神になる。だからどうでもここんところをですね、神心となりて、丁寧に話をしていくというところにね、焦点を置かなければいけない。
合楽の今まで、過去いうなら二十数年の信心を思うて見ますと、私自身が、そうでしたから、あのお導きということを、ほとんど申して参りませんでした。
ね、まあ、普通では、いわゆるここんところを説かれるわけですよね。
神心となりて人に丁寧に話をしていくということ、そのまんま、私はお導きということだとおもうです。
けれどもそれは、私自身の、いうならば、力というものを知っております。
私が、百人しか持てないものに、ね、皆さんがどんどんどんどん、お導きをなさったところでです、ね、百人よりしか持てんのですから、もし助かったなら、またこの百人の中のが、脱落しなければならない。
私が持てない、もてる力がそれだけなんだ。自分を力を知っておるから。
だからその内容として、その真の信心を、いわゆる天然地念といったようなことを申しているわけね。
天然というのは、自然の然という字ですね。私どもの上に起きてくる自然に、私どもlの上に起きてくるその事柄というものをです、ね、それを御神意と頂いて、そのことが例えば、苦しいことであるなら、その苦しいことを、いうなら難儀なことをです、地に念ずる。地念の念は、こ祈念の念です。天然は自然の然、天然地念。
そういう信心にもう一生懸命でしたね。
して、ここに真の信心があったと、ま、思うて、そのことに精進してまいりましたよね。皆さんも共々にそうでした。
ですから、それがまあ、一通り出来たとして、そこのところがお互い、一通り分かったとして、最近、いわゆる五つの願いということになってまいりました。
この五つの願いをです、もうどうでも、神心となりて人に丁寧に話をしていかなければならないことになっておる。でなかったら、真の信心が欠けることになる。
今までの真の信心に、より真の信心をさして頂く。
ね、私どもは、ね、自分の健康、家族の者の健康を願うことは何か自分の我情のように思うておった。
自分ごとのように思うておった。ね、家庭の円満、ね、または家庭に不和のなきが元と仰るから、どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さいというのも、もう自分、自分のための、家庭円満というふうに頂いておった。
まして子孫繁盛、家繁盛ということなどについては、もうそげんやが上には、お願いはでけん、こがしこおかげをいただいとるとじゃから、と言うようなことであった。
また事実、なら天然地念の生き方で参りましたらです、ほんとに見事に、なんていうかね、その天地のリズムを、その聞き続けれれる信心である。
その天地の心を体得していけれれる、もう、日々が楽しい、ね、神様がここに物言うて下さる、ここに姿を見してくださるかのような、実感が天然地念の信心には、あったですね。
ですから、そこんところはもう、一通りマスターしたとしてです、だからそういう心で、もう日々がです、ね、神様のご守護の中にある、その一つのリズムに乗った生活がでける。
そこに有り難い勿体無いという気持ちが出来てきた。
その気持ちでです、こういう気持ちになられたらです、ね、みんなもどのように素晴らしいことであろうかと、いうことになってきた。
ね、そしてそういう気持ちで、なら、願いを本気でさしてもらう。
昨日、夜の御祈念を、久富先生が当番で、御祈念をしてその後に、皆さんに御理解しておられるのをここで聞かせて頂いて、ほんとにそのことに取り組むということは、素晴らしいことだなと、私は思うたです。
例えば今、五つの祈り、親先生がもう御神前に柏手して、向こうたら最後、もうどうでも、こりゃもうどうでも、願わねばならんこと、家族勢を揃えて、どうでも願わねばならんこととして、ね、一つ、二つ、三つ、四つ、五つと、五つの願いをしてもらう。
どうでも、願わねばならぬことと言われるけれども、これを願わして頂いておったらね、願わずにはおられんことだと分かった、と言うておられます。
素晴らしいと思うた。ね、こりゃ、願わねばならんことだ、ということじゃないのです。願わずにはおられんのです。
それは、例えば私どもの家庭のことでも、健康のことでもですよ、ね、または家繁盛子孫繁盛のこと、そのことをです、願わずにおられんというて、後の二つのことなんで、でなかったら、真実の御用が出来ませんもの。
でなかったら、神様の願いに応えられませんもの。
神願成就のことんためにも、どうでもこの三つの願いというものをです、さっきのところのあげられておる三つの願いというものを、お聞き届けいただかなければです、次の神願成就ということに、の、にならんのだ。
家族勢を揃えて、どうでも願わねばならぬこと、と言われるから、願わして頂いておるうちにです、これは願わねばならんから、願うのではない、願わずにはおられないものがです、自分のこの命の、となって来たわけです。
ね、ね、それはわいてくる清水のようにです、願わずにはおられんものに、高められてきた。ね、そしてです、それをなら、知らない人たちに、ね、または家庭の者が、信心がないならば、家庭の者にも、ね、こういう大変なお願いをさして頂いておるのであるから、ね、主人であるならば、家内にも頼む、子供にも頼む、店のことであるならば、店員さんにも頼む、家のことであるならば、女中さんにも頼んでからでも、このことを願っていくということになってきた。
いわゆる神心となりて、人に丁寧に話をしていくということ。
ね、そのことによって、ならおかげをうけるということも、事実の証というものがたってくるだけではなくてです、頼んでからでも、頼んでからでも信心をさせると言うこが、神様の願いであってみればです、ね、頼まれた人、そのの人も真の信心になっていくきっかけを作ってあげることですから。
ね、神心となりて人に丁寧に話をしていく、ね、丁寧に話していく、それが私は頼んででも聞いてもらう。これが私は丁寧だと思うですね。
頼んででも信心をしてもらう、私の話を聞いて合点がいくなら、あんたも付いて来なさい、といったようなものではなくてです、頼んでも、ね、そしてそれは自分をいつも中心にしたもhのではなくて、頼んで、そん頼まれたその人も、おかげを頂かなければならんから、と言うとこですから、これが神心でなくて、なんであろうかと私は思うです。
ね、お父さん、あなたも加勢して下さい、私一人ではとてもむつかしか、というて頼む。ね、けどもその、そんなら、お父さんに頼むという、そのお父さんその人も助かってもらわなければならんから、頼んでおるのである。
ね、しかも頼んでからでも信心をしてもらう、信心をして、その信心をされる人が、またそういうおかげを受けて、頼んででもまた信心が続けられていくと言うほどしの、信心がここにありますね、それが真の道をふんでいくのぞ、ということになってくる。
ね、真の道をふんでいくということはそういうこと。真の信心をさしてもろうて、真のおかげを頂いて、ね、そしてそれをまた、人にも伝えさして、しかも、伝えるということはただ、聞いてもらうといったような、頼んででも、私は丁寧とはそういうことだと思うです。ね、合楽の信心が着々として、ほんとの信心へね、基盤つくりから、材料を集めて家を建ててあげていいくようにです、ね、だからこれに乗り遅れたら、やっぱだめなんです。ね、なら今までの信心が完璧ということでもなかったでしょう。
私を始め、皆さんでも、ね、成り行きを大事にして行こう、すべての事を御事柄として、それこそ御の字をつけて頂かしてもらうほどしの、手厚い信心をさして頂こう。
これが基盤になるもの。
ね、そうしていよいよ願わなければならんこと、家族勢を揃えて願わなければならんことそれが五つの願いとして、はっきり願わねばならんことが出された。
そこでそれに取り組んで、いよいよ願わしていただくことになったら、神様も本気でそのことを願わせようとする働きが、始まってきた。
昨日、一昨日の二十五日の研修会のときに、久留米の光橋先生が発表しておりましたが、親先生このことをお願いしだしたら、たとえば家庭の者の健康のことを、体の丈夫のことを願わせて頂いた。そしたら家族中の者が、七、八人ぐらいおられますでしょうか、風引く者、みんなそれぞれ、病気をした。
ね、体の丈夫を願えとおっしゃるから、ねごうたのに反対に病気をする。
してからというけれどもです、ところがそこに、あの光橋先生の一つの悟りと言うか、発見があったんですね。
はあ、私達が、体の丈夫をどうぞと願いよるけれども、まーだ、ほんとのもんじゃなかったということです。
実際に子供やら兄弟やらが、お母さんやらが病気をしてみられてからです、初めて、いわゆる、そこに病気というものが、ね、不健康と言うことに、を目の前にみて初めて、真剣に健康のことを祈る。ただ願っておるというのが唱え言葉のようなものではいけない。
ほんとに、実際にここに病気をしておる人が、おかげを頂くことのために、ね、祈らなければならな、ね、祈りが切実でなかったということをね、分からしてもらった。
祈らしてもらったら、もちろん間もなく、全部がおかがげを頂いたとこういうのである。ね、ね、ですからね、例えばならお金なら、お金んでもやはり不自由してみなければです、真剣にお金のお繰り合わせを願うということ、もういっぱいあるんなら、やっぱり実感のでらんだろうと思うですね。
ね、ですから自分というものを窮屈な場に置く。ね、やはり修行が必要だということが分かります。自分の窮屈な場に置く、ね、それを修行と申します。
ね、食べたい放題、したい放題、ね、そういうことでは、ね、だからです、ね、なら、私どものように、食事なら食事んでも、二度、二度食ですから、今ここの修行生の方達は何人も一日に一回、一回修行、一食修行をしております。
ね、ですから、自分を一食修行という窮屈の中に自分というものを閉じ込めてしまう。
そこから切実にです、は、なんと食物のありがたさというようなことが分かってくるわけなんです。
お食物というものは、お粗末には出来るもんじゃないな、ていうことが分かってくるんです。
ね、なら、どんなにお金があってもです、日に千円以上は使わんと、例えばこう窮屈なとこに置いてみる、自分を。
してみると、その百円の金でも工夫をしなければ、足が出る。手が出てきてしまう。
ね、けれども千円以上は使いませんと言ったような、修行をしてみるとです、なるほど金の尊さ、有り難さ、いや、倹約をしなければ出けることではないことが分かってくる。自分を窮屈なとこはろに置く。あーつか、いるもんんだか、どんどんこうたっちゃよかが、金の有る人はそう思うでしょう。
だからそれではいつまで経っても、金の有り難さが分からんから、なら、そうですね、うまかもんがあるときには、どんどん、がぶがぶ食べちから、ね、は、飲んで食うて、ちょいてい、というごとある考え方をです、ね、そこからです、私は本当のあの願いと言うものが、光橋先生じゃないけれども、病気にみんながなってみて初めて、体の丈夫を願うということがこのくらい、真剣にならなければいけないということが分かってきた。
ね、私達が願うからには、やはりそういう一心、そして願わして頂いておると、願わねばならんから願うのではない、願わずにはおられないという命の叫びというようなものがです、祈りの言葉になって出てくる。
願わずにはおられんのだ。
昨夜、日奈久の富永先生たち夫婦、御信者さん二人伴のうて、もう、私寝とりました。
そしたらお礼に出て来とられるとこういう。
ほいでお広前に出て参りました。
もうほんとに、ない命を頂いたんですからね。私は昨日、あの文雄先生と、遅う話したことでしたけれども、神様のいろんな働きの、微に入り細にわたっておられることに驚くね、ていうて話したことでしたけれどね。もうそれこそ、もう感動、感激いっぱいでない命を頂いた。親先生のお取次ぎなかったらもう、絶対助からなかった。
それを実感しておられる、自分でも。もう感激いっぱいでね、お礼参拝ができたと言うことをです、お礼のお届けがあっておりました。
ところへ電話がかかってきた、善導寺火事だ、原酒店、原ていうお酒屋さんが、今燃えとる。どうぞお願いします。誰からか知らんけども、電話がかかってきた。
そいで私は、原酒店と言うお届けをさして頂いて、富永先生のお届け半ばでした。
火急ね、急なことですから。後から聞いてみたら、原さんではなくて、原さんとこ
、原さんじゃなくて、ま、も少しばかり北のほうへ行った、お店が二軒全焼したということでございますけれどもです、そん間違うておるということにね、文男さんもう、ちょっと恐れ入るばい、ちゅうてから話したことでした。
富永先生が腹いっぱいに、有り難いいっぱいできちゃるとです。
腹ん中は、有り難きもったいなき恐れ多いでいっぱい。原酒店、
原ていう酒屋、酒ということが有り難き勿体無き、恐れ多きということ。
ま、富永先生に、あんたがもう感動いっぱいで今日お礼参拝来たのが、これはね、家事というてから今お届けがあったばってん、これが今あなたの、心の内容じゃろうの、というて話した事でした。
ね、例えばそういうちょっとしたその、火事があるとか、間違わしてからでも、そこにですね、もういわゆる、天然の一つのリズムちゅう、ね、自然が奏でてくださるところのリズムというものが、そこに神が物言うてくださるかのように、思うでしょう。
●② ね、そしたら、神様から、定義ということを頂いた。定まった、義。
て、私、昨日、大体定義づけるといううことを申しますよね。
大体kれはどういう意味のことかねと言うて、ま、文男さんにいろいろ聞いたんだ、聞いたことでしたけれど、まあ先生が思うておられるそういうことでしょうね、というて私の思いを聞いて言ってましたけれど、どういう意味か私は分かりませんけれどもです、富永先生ほんとに、もう大変な苦しいことであった、けれども、今度のあなたの病気によってです、ね、家内が一生懸命になるだけではなくて、信者一同が一生懸命に、ね、親先生をここで亡くしちゃならん、もうそれこそ、一生懸命、ね、往復八時間もかかるというところをです、自分達の仕事を終わってから、いつも参ってくるですから、いつも十時、夜の十時ごろんなる。
そしてお願いをしてまた帰っていく。しかもそのお願いのしぶりというものが、もう、ま一つの、信心の手本だと私は思うくらいに、皆さんにも聞いていただいたようにですね、これはまだ信心が足りんのだと感じたら、次の信心に、例えば十日に一辺が、七日に一辺になり、七日に一辺が、五日に一辺になり、五日に一辺が、三日に一辺になるといったような信心のしぶりでしたね。御信者さんがたの。
ね、例えばお供え一つでもそうです。お神酒が、始めは二本じゃったが次には、三本、次には五本、次には六本、次には十二本というようにですね、もうその、これはまだ足りんのだというところを、押し上げて行ったような、願い振りでしたよ。
そこで富永先生、今度あなたの病気ということがです、ほんとに、神愛の表れであるということを感じます。
取次者として、人の難儀を取り次がなければならんのにです、自分が力がなくして人を助けることはできません。
して見るとその病気は病気でなくて、あなたに力を与えたいということなんだ。
神様は、あなたに力を与えたいということが、大体は目的なんだ。神様の目的は。
この取次者、この先生ば、苦しめてやろうというじゃなか、力を与えたいばっかりなんだ。なら力を与えたいばっかりということは、とにかく、少しでも人の難儀が、助かる、難儀な氏子が助かることのためなんだ。
してみると、元手なしには商売がでけん、その元手を稼がせてくださったようなもんだ。してみるとそれは、死ぬるとか生きるとか、病気とか、苦しいとかそんなことは、もう実を言うたらもう枝の葉である。
問題は、これによって、力を与えて下さろうとする、ということ。
ね、ほんとに難はみかげ、難あって喜べと仰るがです、難はみかげとそんなふうに定義づけてしまうということ。
それは病気じゃないち、あなたに力を与えたいばっかりなんだ。
それが本当なんだ。ね、だから、そういう定義付けがでけますとです、私どもが難儀に向かう姿勢ていうものが全然違ってくるです。
はー、苦しい難儀だていうことがない。ああ有り難い、勿体無いなってくるとです。
ね、この苦しいとこからはよう逃れたい、逃れたいというて、願うという信心じゃなくてです、そのこと自体を大事にする、丁寧にする、そこから、おかげを受ける。
そういうおかげの頂けていく道をです、私どもは体得させてもろうて、それを丁寧に話していく。
神心となりて、人に丁寧に話をしていくのが神へのお礼ぞと。神様へのお礼、しかもそれがです、神になっていくということ。これが神になるのぞと、ね。
どうでも私たちが、ね、本気で信心を頂いて、その信心をです、ね、頂いておっても頂いておっても、願わなければならなぬことが、健康のことであり、いやが上にも頂かなければならんのが、ね、家庭の円満、こっとりといわん、こっとりともいわん、仲よういきよるというだけじゃいかん、ほんとに拝み合うていけれるほどしの、ものになっていかなければだめ、ね、だから、もう限りがない。
もうこのくらいうちは円満だけんもう、家庭円満のことだけは、願わんでよかちゅうことはあろうはずがない。
なら、子孫繁盛の場合であっても、家繁盛のことであってもです、ね、日勝り、月勝り年勝りにおかげを頂いたら、もうこのくらい貯まったからよかちゅうことじゃない。
限りなく、願っていかなければ、願わなければならん。
ね、それも神様の願いに答えさせて頂けることのために、願うのである。
そこが分かってきたら、願わねばならんのではない、願わずにはおられんことになってきた。もう大変な高度なことになってくるわけですね。
願わずにはおれなくなってきた。神願成就のことのために、祈念をしなければおられなくなってきた。
そのために修行さしてもらわなければおられなくなってきた。
高められる、高度な、いわば信心。真の信心とは、これだということになるのです。
ね、そのために修行さして頂いておるということになるのです。
どうぞ皆さん、皆さんの周囲の人たちにです、神心となりて、丁寧に話をしていくということは、ただ、話を聞いてもらうというだけではなくて、頼んででも、お参りをしてもらうということにならにゃいかん。
それが神心、それは私がおかげをいただききらんけん、あんたも加勢してくれと、言葉では言うておる。頼んで、どうぞ参ってくれ。
けれども、実は、その参ってもらう人、その人自身も助からなければならんから、頼むのである。丁寧に頼む、丁寧に話をしていくということはです、頼むということだと私は思う。
ね、そういう信心が家族いっぱいに、家族中でできるようになる。
昨日、一昨日でしたか、久富正義さんが、しみじみと、楽室で話しておりましたが、今度親先生が仰っておられるこの五つの願いということは、もう、大変なおかげを頂くもんですよ、ちゅうて話よりました。
とりわけね、あの家繁盛子孫繁盛のことを、願わなければおられないと、願うということについて、家族中の者ば、私その晩、そのみんな集めてから話しました。
てからこれを願わんものはおるまいもん、と家内にも子供達にもそれを話した。
したら誰でも、家繁盛、子孫繁盛を願わんもんなおらん。
そんならお父さんの話を聞いてくれというて、聞かせた。
ね、家繁盛子孫繁盛願うからにはね、願うからには、これから始末倹約をしなければいけないぞ、ということになってきた。
ね、家繁盛のおかげを願うならば、ね、今までらんきしておったそれを、いわば倹約していかなきゃならん。
もうあくる日から、あの家内が、パンを買うてきよった。したら娘が、お母さんまた贅沢しよる、パンを買うて、ご飯があるとにパンやら買うてこんでよかち、ほんなこつの、ちゅうてから家内がいよった。
私達でも、あんげな仕事をしよりますから、もうお付き合いで飲みにいかんならんことが、もう、このお話をいただくようになってから、何回断った、断られるち。断ろうと思うたら、いろんな事情を言うてから、今日はちょっと都合の悪いけん、そのお付き合いをせんだけでもどのくらい金があまるやら分からんち。
ね、息子達もです、そのことに本気で、こう、ほんなこてお父さん、そうのというふうに聞いてくれると。ね、子孫繁盛、家繁盛をお前達がほんとに願うならば、始末倹約をしなきゃいけん。それを信心の修行とさしてもらわにゃいけんぞというて家族中で、もうこの御理解だけでも、家族がほんとに、そういう始末倹約の心がでけてです、それだけでも、残るおかげを頂いておるという話をしておりました。
ね、だからほんとにそれが早速行の上にそのように表わされてくるというところに、いわば願わずにはおられないということになってくるのではないでしょうかね。
そういう例えば願いがです、家族中が勢を揃えて願わして頂くことになるのですから、おかげにならんはずがない。
そのおかげを手本として、そのおかげを一つの見本として、人に、それこそ丁寧に話をしていく。
ね、その丁寧に話をしていくというのをです、頼んででも、お参りをしてもらう、そこに私は神心があると、または、丁寧があると、ね、そういう信心をいよいよ身に付けていかなければいけないと思うですね。どうぞ。